Sweet Pain - Nusrat Fateh Ali Khan

スイッチをオン・オフするように、生と対置したかたちで死をイメージできなかった。ひとの肉体的な死に触れて、悲しいとか怖いとか感じた覚えがない。両者の境目は連続体の一地点で、相互に往来が可能なのではないか。そして死とは、時間をかけて体内に浸透していった蓄積の結果ではないか。そんなことを考えたりした。今になって振り返れば、小さい頃よく読んだ童話の死生観からかなり影響を受けたように思う。

その意味での死ならば、むしろ日常に近い。他者からは認識されず、自分だけが体内にこわばった異質なものを感じながら日常を過ごすのだろうか。味のないガムを噛み続けるような死。もしかしたら自分でも状態の変化に気付けないかもしれない。死ぬまで死を恐れるのかと嗤う声が聞こえてくるあたりで、考えるのをやめておく。デカルトが旅に出たのと同じ理屈で、そこから議論をすすめるためにはベースになるような異質な他者/ものとの出会いや体験を重ねてからにしたい。

California show your teeth

心理学で使われる分析手法や療育の方法て、人類学に活かせるところが少なくないように思う。たとえば「認知的発達における文化の役割」とかの学際的な文化間比較研究になると、教育人類学者やカリキュラム研究の専門家の定義する「認知」でやったところで、近年の認知心理学神経科学の成果を考えると、どうも頼りない(昔リベリアでやってた)。

あと、質的調査法のひとつにライフヒストリー法てのがあるけど、これにも精神分析の治療が示唆に富んでる。後者では語りの内容が事実か否かは二の次なのに対して、前者にとって事実の歪曲・誇張はノイズでしかないetcの違いはあるけど、それは目的の違いということで(精神分析の目的はあくまで症候の解消)。

思いつきを書きなぐり。知らないだけかも。

Hoppipolla

大見尾根行った帰りに、ノルウェイの森にでてくるカウンセリング施設?のモデルになったと言われる修道院村に寄って見た。小説の世界は空想に任せておくもんだと思った稀有な例。

前回行ったときは前ヶ畑の集落過ぎたくらいから犬があとを追ってきて、最初はかわいくてかまってたけど、飼うや飼わぬやの逡巡があって、結局置いていったっけ。あれが人生で初めて犬をちぎった記憶で、多分これからもない。

想いよ 逝きなさい

グーグルブックで拾ったリビングストンの自伝を、最近少しずつ読みすすめてる。民族の分布図が頭に入ってないので?ばかり。娯楽として読むぶんにはそれで十分おもしろい。宣教師とか冒険家とかイメージが先行しがちだけど、そこにいるのはひとりの(文章からなんとなく好印象が持てる)人間で、いつの時代も人間と向き合うことの大変さは変わらないみたい。


source; Livingstone(1858). Missionary Travels and Researches in South Africa.

けっこう男前。意志が強いひとって目にあらわれる(でかいとかじゃないけど)。

Cali never rains and New York’s heart awaits

海外のお世話になったひとに送った手紙が、宛先不明で帰ってきた。投函から、再び手元にもどってくるまで所要1か月。住所を確認するためにメール送ったら、返事が来るまで今度は3日。「日本からだと2週間ぐらいでつくんじゃないかな」だってさ。そりゃそうだけど、夢のない話じゃありません?


後悔妄想レポート(いつの間にか授業が終わっていつの間にかだされてたやつ)満たされることのない欠損感。それゆけ。雪が降るのを待つな。