So perfectly placed below the mirror

たてつづけに刺激的なペーパーに当たれてほくほく。手法とか方法論という意味ではどれもとりたてて目覚ましいものではないのだけど、「そこでこれをするか」とか。Aを、ちょっと思いつかないところから引きずり出してきたBに結びつけてどうか、とか。要するにアイデアがいい。まだ網羅的に理解できているわけではないけど、言葉の壁を越えて、良さは伝わってくるなんとなく。舞い上がって悔しさすら麻痺する。まぁこういうところで若さを再確認するのもどうかと思うけど。
そうやって道具をせこせこ貯めこんでいるうちに、これまたなんとなく自分のなかで方向性が、形をもっていく。向いてる先はある種のものの見方のほうへと収斂していく。なにかを選ぶということはなにかを選ばないということを選ぶということだから、見えるものの範囲は確実に狭くなる。諦めのつかない質で、手にとらなかったものにもう後ろ髪をひかれる。矛盾してるけどまずいことだという気もしない。アンビバレンスを抱え込む/抱えこまれることこそ変わらず大事にしてきたことだから。
手でつかめるものは思っていたほどではないけど、やっぱり、掌よりはいくらか大きい。古い台詞です。

everything else is just borrowed

Pessimism of the intellect, optimism of the will.
高校のときに読んだ雑誌のなかで、誰か誰でもないひとが「好きな言葉」に挙げていて印象的だった。グラムシだったのか。本には内容の良しあしとは別のところで、読まれるべきときがある。本の語りが自分のなかのテンポラリーな問題意識や興味の方向とかみ合うとき、それを出会いと呼ぶのだろう。マリノフスキー日記は旅の小脇に抱える本、そのときまで閉じておこう。

see me die than to see me fly

卒論書きあげてから頭が軽くて気持ちいい。下準備を始めたのが結果的に去年の夏からだから、1年と半年弱の重さか。だてじゃない。アフリカでしかできないこと(+できないこと)、日本(≒アフリカの外)でしかできないこと(+できないこと)と自分の設定した目標の関係がだいぶクリアになった。そんで、今の自分のいるべき場所はどちらでもなく、それは、自分が主体的に選択するようなものでもないことも。これが収穫。

桶の中の脳

感覚的におちるというのは大事なことだと思う。ひとりの他者はいわずもがな自分のことすら分からないんだから(それと「分かろうとしない」ことはべつだけど)。もう別段何らかの説明図式のようなものに憧れをおぼえない。ただ、不可知の立場からはもう半歩くらい踏みだせる気がする(そうでなければ私がこれまで出会ってきた/これから出会うであろう信じる人々とどうやって対話できる?)。うまく言えないけど、程度の違いこそあれ生きることそのものには、どれだけ言葉を尽くしたところでそのほんの一部分しか説明したことにはならないほどの不可思議さが内在するのだと、そしてそれははたからは個体の単なる限局性にすぎないけれど結局「私」として生きるからにはその頸木から逃れられないのだと、そう思う。

poor leno

「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書)

「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書)

錯誤という現象は視点をミクロに落としこんでいくことによって解消される。ふむふむ。しかし、こころをそうやって細切れにしていく作業には爽快感とともに、得体のしれない違和感がつきまとって離れない。そこから語られない部分を探してしまう。砂漠で何を思うかなんて、行ってみなけりゃわからない。論理不要の経験主義(「行ったもん勝ち!」)を言うのではない。ただ、カミュが好きなだけ。