桶の中の脳

感覚的におちるというのは大事なことだと思う。ひとりの他者はいわずもがな自分のことすら分からないんだから(それと「分かろうとしない」ことはべつだけど)。もう別段何らかの説明図式のようなものに憧れをおぼえない。ただ、不可知の立場からはもう半歩くらい踏みだせる気がする(そうでなければ私がこれまで出会ってきた/これから出会うであろう信じる人々とどうやって対話できる?)。うまく言えないけど、程度の違いこそあれ生きることそのものには、どれだけ言葉を尽くしたところでそのほんの一部分しか説明したことにはならないほどの不可思議さが内在するのだと、そしてそれははたからは個体の単なる限局性にすぎないけれど結局「私」として生きるからにはその頸木から逃れられないのだと、そう思う。