batcat

ひょんなことで鶏を刎ねる(血抜きする)ことになった。私には初めての体験だ。

鶏はじたばたさせると、体の大きさの割になかなか手ごわい。動きを静めるためには、羽の付け根の部分をつかんでやるといい。これできゃつは(何筋というのか知らないけど)筋肉を自由に動かすことができなくなる。余ったほうの手で喉を押さえてやるとおとなしくなる。

作業をする心構えとして、私はそれをモノとして処理するよう自分に言い聞かせた。私がやろうと機械がそれをしようと、きゃつらはいつもと同じように食卓に並ぶ。結果は同じこと。変に情が移っては、作業しづらくなる。私は五感を伝ってくる生にあえて鈍感になって、雲の薄くかかった青空をぼーっと見上げていた。

両足で羽根と足を押さえて「さあ、やるか」という段になって、おかしなことに気づいた。やつにまるで生気がないのだ。首を手にとってみても、くたーっとなって、私がこの手で奪うことを何度もイメトレしていた力はいつの間にか失われていた。眼球は薄い被膜に覆われていて、眠っているよう。どうやら静かにしておくために首を絞めていたのが、そのまま縊死させちゃったようだった。どうも肩透かしを食らった格好だ。ぶらぶらになった首をほとんど機械的に処理して、私の役目は終わった。

このちょっとした手違いがここ数日頭の中で引っかかっていた。「どうせ殺すのなら、首を刎ねる前だろうが後だろうがたいした違いはないじゃないか。」私もそう思う。きこきこやってるときは、「ちょっと刀の切れ味わるいよな」と思う余裕があるくらい、ほとんど頓着しなかった。しかし、時間の経過とともに出来事が感覚としての思い出の域を離れると、残された違和の感覚は拭い去りがたいように思われた。やっこさんに強いてモノとして接するという機会が奪われたことが、モノ以外の側面を現出させる契機になったのかもしれない。白濁色の膜に半分閉じられた目、あの目が私の記憶から離れようとしない。親戚の通夜でデスマスクを拝見した際、しばらくの間まぶたの裏に焼きついて離れなかったような覚えがあるが、それらの経験は死の重みを実感させてくれるという意味で共通しているように思われる。

ということをチキンカツ頬張りながら考えてるんだから、世話ないよなぁ。