遠山鳥

理解しようとすることの大切さを、貶めているのではないよ。それはひとである以上、他者との関係性においてとても本質的だと思う。僕なんかは、そばにいる人にうまく近づいていけてるのかしらと、ナイーブな不安で時折足がすくんでしまう。そのための媒介としてのことばには限界があり(あなたは諦めるのが早すぎると笑うだろう)、それでもなお、その不完全な道具をつかって自分を含む他者に向かっていかなければならないと言うことを、僕も昔あるひとから教わった。ひとの寄り付かなくなった葉桜にあたたかな感情を覚えるほどではないにせよ、不安定さをそのままに引き受けることのかけがえのなさを、自分の身にひきつけて考えることくらいはできるようにはなった。それでもこころの片隅に虚無の存在がちらつくのは、僕生来のものぐさだろうか。

それはともかく、僕はひととの距離感を煎じ詰めるあまり、知らず知らずに多様なコミットメントの可能性をあらかじめ閉じてしまうのではないかと恐れている。この点をうまく説明することができればいいのだけれど、まだ整理できていない。僕個人にひきつけていえば、通時的・共時的な世界のなかにおける自分のたち位置にほかのひとよりも少しだけ敏感な僕にとって、それがコミュニケーションのあり方の根幹を揺るがす潜在性をはらんでいるように思われる。たとえば、僕は英語でひととコミュニケーションをとるときに、日本語使用時より2歩手前くらいの距離で対峙しているような気がする。そういうときには、日本人としてどうなんかなぁと感慨深くなる一方で、ある種の関係的な「構え」がとても不安定で相対的な基盤の上に成り立っているに過ぎず、したがって、先に述べた潜在性からひろがる世界(ポジとネガ2つの意味において)に、いつも驚きを新鮮なものにしている。

僕たちに拓かれている自由という外見をした選択肢には、同じくらいの不自由さが潜んでいる。自由を求めるのであれば、あらかじめ設定した枠の付近を行き来するだけでなく、それを意図的に更新しなきゃいけないんじゃないか。