いい塩梅に降りました

霰みたいなんを顔面で受け止めながらチャリこいでるときに、winter fallのサビが頭をリフレインしはじめた。こういう、ふとした時に突拍子もないことが頭に浮かぶのは、なにか感覚的なスイッチが入ったことの表れなのだろうか。

歌詞がどんなだったか記憶をたどっていくうちに、今度は『烈火の炎』というワードが釣れた。これも最初は思いがけない気がしたけど、すぐに線と線がひとつの像を結んだ。それは塾からの帰りに、その曲が流されている駅すぐ側のコンビニで、その漫画を立ち読みしていたときの記憶だった。塾に通っていたのは小学生の時分だから、私は10歳前後だったはず。当時が呼び戻されたいまでは、そのコンビニの書棚の位置とか、書棚の背にしたガラス窓を通した風景が視覚的に想起される。そして、その像が鮮やかさを増していくにつれて、肝心な事柄がそこから抜け落ちており、それが何なのかをつかめていないという感覚が確かなものになっていった。『winter fall』『烈火の炎』といったワードは一連の記憶の周辺的な部分に過ぎず、その空白の部分が記憶を構成する中心的な軸となっていたために、全体が保持されえたのだというところに落ち着く。しかし、その正体が何なのかはどうしても分からない。

流行の音楽を耳に流しながら漫画に入っていた私は、ふとそこから抜け出してなにかを思った。時間にして数十秒からせいぜい数分、そうかからなかっただろう。そこまでの記憶はかなりの確度をもっている(気がする)。それは友達との関係についてかもしれないし家庭のことなのかもしれない。もっととりとめもなく、自分という存在のあり方や位置について思いを巡らしたのかもしれない。関数の方程式のように、残された解はなんとも言えない寂寥感だった。明らかになったすべての要素から立ち返っても、関数はxのままだ。核をつかもうともがいているつもりが「そういえばコンビニのお姉さんきれいだったなあ」とか周辺部を掘り起こしているばかりで、空白がますます深まっていくようで、深夜の底冷えが体に染み込んでくるようで。