頼むから
一匹の猫が私のベッドの上で眠っている。
すっかり寝支度を整えて寝室にやってきた私は、ベッドサイドで呆然と立ちつくした。
いくらか視界がズームアウトしたことにそのうち気づくが、そのぶん眠気が世界を重くする。
その猫(まぎれもなく私の飼い猫のシュクルだ)が起きないかとじいっと見ているうちに、それを輪郭づけていた線がぼやけ、まだら色の毛の一本一本が不ぞろいに波うつようになってきた。
私はなんとはなしにその不思議な動きをする毛玉に触れてみようと手を伸ばし、あわてて手をひっこめる。
ちがう、これは毛玉なんかじゃなくて猫なんだ。
そうじゃないだろう。
これの名前はシュクルというんであって、あんただってこれがただの猫だなんてことは子どもたちの前では何があったって言わないだろ。
たしかにそうかもしれない。
ただ思うんだが、これはシュクルであるとどうじに、あるいはそれ以前にといったほうがいいのかもしれないが、これは見方によっては毛玉でもあるし猫でもあるかもしれない。
どうだろうか。
そうだろうか。
夢の中で小人達は喧々諤々の議論の末、朝起きて子どもたちと猫について話をするときに、これまで「猫」という言葉を使っていた場面で「毛玉」と言い、「シュクル」という言葉を使っていた場面で「猫」と言い、「毛玉」という言葉を万が一使う場面が来たら「シュクル」と言ってみようという話になったらしい。
新奇なもの
その村の人びとは昔からのなりわいを捨てて異人から金をもらうようになった連中を指して、一度死んでゾンビにでもなったんだろうと囁きあった。そうでなくて、どうして自分の子どもを遠くに出稼ぎに行かせることができようか。また、そんな得体のしれないもののためにあくせく働くことができるだろうか。彼らにはさっぱり分からなかった。そのような人たちとの付き合いも、自然疎遠になった。しかし、別に蔑んでいるわけではなかった。そのようなあたらしい「やり方」は、軽蔑や尊敬の想いを向けることができるほどには彼らの世界のなかで整序化されたかたちで位置づけられていなかっただけのことなのだ。彼らはただただ、おどろいていた。おどろきながらも理解のし方をまさぐっていた。
星々
ぼくたちさんにんはよく、じべたにねころんでよぞらをながめていた
ペンキをハケでちらしたような星のふぢには、はじめのようになにかがむねをみたしていくようなかんかくはしだいにうすれていったものの、
そうやって、なにもせず、ながれぼしがながれるていどのひんどでことばをかわすじかんが、すきだった
ほしをみながらかみのせつりをとかれたあのひのよるの、ことばにぐらぐらとかたをゆすられたようなかんかくがわすれられない
ぼくたちは、おなじようにからだをだいちによこたえて、まったくべつのものをみていたのだった
ぼくは、みせかけのきょうかんによっていた(そして、それいじょうにすくわれていた)のだ
それにきづいてからは、ぼくはあなたたちのめでみるつもりでそらをみようとした
でも、けっきょくそれはうまくいかなかった
いしきをしゅうちゅうして、わたしのめにあなたたちのフィルターをかけてみても、
かけたそばからわたしといういみがすっとうしろからまわりこんできて、じわじわと蝕んでいくのだった
そうやってぼくは、まいよのようにひとりをつみかさねていった
ほしぞらをみあげるたびに、
ぼくはしらぬまにかけられていたいみののろいをうらめしくおもい、あなたたちはかみのせつりにかんしゃする
やみはふかさをますばかりだ
Even in the Dark
「からだを置き忘れる」というフレーズが気づいたら頭の中を漂っていて、試しにググってみたら面白い文章が見つかった。こういう検索エンジンの使い方もあるんだなぁ。
「ことばは死に、そして身体は意味に縛られている。その救いのなさ。」
「・・・身体が自由であるためには、ただやみくもに、無秩序にでも、体が動き出せばいいのかというと、それは違う・・・枠組み、あるいは目標のようなものがないと、動き出したその動きを、どうにもできない。・・・その瞬間瞬間に起こってくるスポンティニアス(自発的)な動きを取り入れてさらに動きをつくりだしていけるような、緩い、柔軟な枠でないと、せっかく生まれかけた心身の自由を、封殺してしまうことになる。」
堀切和雅、「身体を置き忘れた「ことば」」より
Hoppipolla
「変化はあると思うよ、長い目で見ればだけど」
彼女はそこで、ふせていた目を真正面から私に据えた。
「だぶんね」
やけに力強いじゃないか。
sunday afternoon
それとともにもっと強い印象を持ったのは、深い悲しみのさなかでの、なにかすべてを削ぎ落としたあとの<明るさ>である。…この<明るさ>がホスピタリティの交感の底に漂っていなければならないのだと、つくづく思った。
(『「聴くこと」の力』より)
この一説を読んでいて、ハンパテ=バーの自伝に登場していた、うらぶれても気位だけは失わずに著者を出迎えた王族の男を思い浮かべた。ああ、いいなぁと思ったのは、ものだとか地位だとかが削ぎ落とされても微動だにしない<明るさ>、むしろそれらを笑うユーモアだった。
また、自分がとある村で受けていた歓待の意味をようやくにして了解できたように思う。蚊帳を土産にまた行こう。
Are you goin to scarborough fair?
人間は些細な喜びを断念することを学ばねばならぬ。そして戦争とは、それを学ぶ絶好の機会だ。戦争は人間の本質を暴く。本質的でないことはみな拭い去られる。
(「哲学、女、唄、そして…」、72頁)