The Ghosts Of Saturday Night

思春期に惚れた人といえば、人間としてならいくらでもあるが、その生きかたに惚れたというならば、ジョルジュ・ビゴーと原田熊雄を挙げる。前者は歴史の教科書でおなじみの風刺画家で、後者は元老西園寺公望の秘書を務めたひとだ。原田が口述筆記で残した「日記」が通っていた中学校の図書館書庫にあり、興奮しながら読んだのを思い出す。戦争に突き進んでいく時勢にあって、原田は積極的な関与者でも完全な傍観者でもなかった(ように読めたというだけのことだが)。その中間的な立ち位置に好感をもった。

ビゴーに興味を持ったのも、諷刺というやはり中間的な彼の営みにあった。絵を描くのが好きというのもあった。だがそれ以上に、描くことが美的感覚を刺激すること以外のかたちで、世の中に直接働きかけることに惹かれた。私の思い描く人生は、気楽でそれなりに充実したものであった。

本書によれば、ビゴーはなにも、「気楽に」仕事をしていたわけではないらしい。居留地外国人の既得権(治外法権)を守るために働きかけ、日本の画壇で生きていこうとそれなりに努力したようだ。しかし念願叶わず、20年弱の日本在住ののちフランスに帰国する。あとには風刺から日本人の習俗にいたるまで、数千点の作品が残された。

本書を開国後急速に変化していった日本の通俗史として読むなら、それなりに面白い読みものだと思う。肌の露出に対する恥らいの意識や坐りかたについてなど、うはーなるほどなと。しかし、ビゴーがなにを考えどう生きたのか、どうも煮え切らない。たとえば、ビゴーは日本人をどのように認識していたのか。「近代化によって人間としての品性を失っていくひとびと」と単純に割りきった像でいいのか。日本を離れるとき、彼の心は失望でまるまる満たされていたのか。落胆と侮蔑の思い、それと社会的に地位の低い人たちに向けたれたヒューマニズムは、彼の内奥でもっと複雑に絡みあっていたのではないか。

著者が、現在の移りゆく世相に対する自分の認識をビゴーに重ねるのあまり、人間としての生々しい姿をえぐり出せていないように思う。

ビゴーが見た日本人 (講談社学術文庫)

ビゴーが見た日本人 (講談社学術文庫)