ドライフラワーの赤色みたいに

「死ぬかと思った」て言うことがあるけど、実際に死ぬかと思う体験をしている瞬間にはそんなこと考えない。振り返ってみるとそういう瞬間には、「この状況をどうやって切り抜けようか」とか「あそこ落ちたら引っかかるとこないし、かなり落ちそう」とか、むしろわりとプラクティカルな思考がはたらいているように思う。でもあとになってその場面を振り返るときには、そういう類の思考の経過が消しとんで、「死ぬかと思った」で括られる。これはあくまでわりと楽観的な私の一事例に過ぎないけど、あながち的を外してないように思う。つまり、ひとは事後的に「死ぬかと思う」。

これを記憶の抑圧ととらえて、「なぜあとになって死ぬかと思ったと思うのか?その背景でどのような要因が作用しているのか?」を考えるのも面白そうだが、昨日から今日にかけては「いつ死ぬかと思ったのだろう?」について断続的に記憶を掘り起こしていた。上の仮定から導かれる単純な答えは「体験を回想・述懐したとき」だが、本当にそうか?体験の瞬間から述懐にいたるまでの期間に言動や行動に変化や徴候はあらわれないのだろうか?

そう考えると、思い当たる節がある。危険度がそこまで高くないとはいえそこそこ危ない出来事に直面したとき、相応の緊張感をもってあたっていたのが、危険度マックスの体験を経たあとでは、その前からは考えられないほど無頓着になるという現象がそれだ。世にいう「まぁ、死なんし」である。

(続く)うそ